2018年の大河ドラマ「西郷どん!(せごどん!)」で有名な西郷隆盛。薩摩藩代表として成し遂げた薩長同盟や戊辰戦争における官軍参謀として行われた江戸城無血開城はあまりにも有名ですね。そんな西郷隆盛ですが、東京にもゆかりの地が沢山あるんです。今回は西郷隆盛 東京ゆかりの地を8つご紹介したいと思いますので、江戸時代を回想しながら素敵なよりみちをしてみてはいかがですか?

この記事の目次

江戸開城 西郷隆盛・勝海舟会見の地

JR「田町駅」、都営三田線「三田駅」からすぐの場所にある三菱自動車工業本社ビルの横に「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地 西郷吉之助書」という石碑が備えられています。この場所は薩摩藩蔵屋敷があった場所で、「江戸城無血開城」が決まった場所なんです。石碑に記されているとおり、石碑の書は西郷隆盛の孫の西郷吉之助によって書かれたものだとわかります。西郷吉之助は西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男で貴族院議員や参議院議員を務められた方です。ちなみに南洲は西郷隆盛の雅号(ニックネーム・ペンネームみたいなもの)です。

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江戸城無血開城とは?

今から約150年前の慶応4年(1868年)3月15日に官軍(新政府軍)は江戸総攻撃を予定していました。その前日2日間にわたり官軍参謀の西郷隆盛と旧幕府軍代表の勝海舟は、薩摩藩蔵屋敷で行われた会談により江戸城無血開城を決定。これにより江戸が戦火に包まれることは無くなりました。

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当時の江戸は100万人以上もの人が暮らしていたと言われているので、仮に官軍による総攻撃が開始されていたら多大な被害が及ぼされて、明治維新の進みももう少し遅かったのではないでしょうか。

薩摩藩上屋敷跡

薩摩藩蔵屋敷(「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見の地」)から徒歩で数分のところにある「薩摩藩上屋敷」。現在はNEC本社となっています。石碑はバス停「芝五丁目」のすぐ近くにありました。


薩摩藩上屋敷は薩摩藩の江戸での活動の中心地となっていて、薩摩藩にとって大変重要な場所でした。薩摩藩第11代藩主で名君と言われた島津斉彬も幕末にはここに住んでいました。

2018年大河ドラマ「西郷どん!」では、西郷隆盛が薩摩藩から島津斉彬のお供で江戸に出てきたときにここに住んでいる設定になっています。敷地面積2万2,000坪、約1,000人の薩摩藩士がここで暮らしていたと紹介されていましたね。

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そんな薩摩藩上屋敷ですが、慶応3年12月25日に戊辰戦争のきっかけとなる事件が起こります。いわゆる「江戸薩摩藩邸の焼討事件」です。薩摩藩が先だって江戸市中取締の庄内藩の屯所を襲撃したことを機に、庄内藩新徴組らを中心とした上山藩・鯖江藩・岩槻藩・出羽松山藩が薩摩藩上屋敷を襲撃。砲火によりわずか数時間で屋敷は焼失してしまったそうです。


この数ヶ月後に「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見」が近くの薩摩藩蔵屋敷で行われるということを考えていた人はいなかったのではないでしょうか。

西郷山公園

東急東横線「代官山駅」から徒歩で約15分、旧山手通り沿いにある「西郷山公園」。西郷隆盛の弟であり明治政府でも重要な立場にあった西郷従道(じゅうどう)が当地を購入し、付近の人々からは「西郷山」と親しまれていたそうです。

高台にあるため展望台からの眺めがとても良いことで知られています。春は桜のお花見で多くの人で賑わい、夏は涼しく、冬の晴天時には富士山が望める公園。都会の中で四季を感じられる貴重なスポットですね。

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下の写真は代官山方面から公園に入る手間の小さな橋。西郷橋と名付けられています。

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西郷従道は当地を兄の再起(明治政府への復職)を願って購入したそうです。

明治6年(1873年)に西郷隆盛は征韓論(武力行使による朝鮮進行)が叶えられず、参議を辞職して鹿児島に下野。ところが、明治10年(1877年)に西南戦争が開始、西郷隆盛は自害したため従道の願いは叶えられませんでした。西南戦争が起こっていなければ、代官山周辺がゆかりの地になっていたかも知れませんね。

薩摩藩下屋敷跡

渋谷駅から六本木通りを西麻布、六本木方面に進むこと約15分。青山学院初等部からほど近い場所に「薩摩藩下屋敷跡」はありました。残念ながら現在は常陸宮邸となっていて中に入ることはできません。当時の薩摩藩下屋敷は相当な大きさだったようで、現在の青山学院大学のあたりまでを占有していました。


薩摩藩下屋敷は江戸幕府第13代征夷大将軍徳川家定の正室である篤姫が徳川家に嫁ぐ前に住居としていた場所で、この地から篤姫は輿入れしたそうです。そして、その時の支度係が西郷隆盛だったと言われています。

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この地にはかつて常磐松(ときわまつ)という大きな松がありました。「千両の値打ちが付くほどの銘木」と言われていたそうですが、残念ながら第二次世界大戦のアメリカ軍による空襲で焼失。


写真の石碑は薩摩藩士が常磐松のことを後世に残すために建てたものです。石碑に残そうとしたほどの常磐松、とても存在感のある松だったことが伺えますね。

目黒不動尊(瀧泉寺)

東急目黒線「不動前駅」から徒歩で約15分の場所にある目黒不動産。日本三大不動の一つに数えられ、江戸時代には徳川幕府からの庇護を受けていた神社です。江戸から目黒は日帰りで行ける距離にあったため、目黒不動尊は一般庶民からも大変人気の場所だったようですね。

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嘉永七年(安政元年)当時まだ6歳だった島津斉彬の嫡男「虎寿丸」が突然死去。また、その直後には島津斉彬も大病を患います。西郷隆盛は島津斉彬の回復をこの目黒不動尊で祈願したそうです。その後、島津斉彬の体調は回復。以降、西郷隆盛は目黒不動尊を信仰し、明治になってからも度々訪れたそうです。

越後屋若狭

元文5年(1740年)頃創業と言われている両国の老舗和菓子屋「越後屋若狭」。江戸で創業された和菓子屋としては最古だそうです。完全予約制で3日前に予約をしないと購入できませんので、事前予約は必須ですね。和菓子の中でも水羊羹が特に有名ですが、水羊羹は期間が限定で5月下旬〜9月までの期間限定となっています。

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越後屋若狭の和菓子は明治維新の要人達からもとても人気であり、木戸孝允(桂小五郎)や初代内閣総理大臣の伊藤博文なども通っていたとか。西郷隆盛は明治政府の要人でありながら、ひとりでも買いにきたそうです。人形町の「西郷隆盛屋敷跡」から「越後屋若狭」までは、隅田川を渡って約20分ぐらいです。散歩には丁度良い距離だったのかもしれませんね。

西郷隆盛屋敷跡

日比谷線「人形町駅」、半蔵門線「水天宮前駅」から徒歩で数分の場所に「西郷隆盛屋敷跡」があります。現在は日本橋小学校・幼稚園が建てられている場所で、近くには親子丼で有名な玉ひでや京粕漬の「魚久」がある下町情緒溢れるエリアです。

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旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いである函館戦争が終わると、西郷隆盛は政府職には就こうとせず、故郷の鹿児島に戻ってしまいました。ところが弟の西郷従道からの説得で明治4年(1871年)に要職の参議に就任。参議として廃藩置県などの新制度を制定させています。そして明治6年(1873年)に征韓論で下野するまでの2年間、暮らしていた場所がこの場所。

西郷隆盛像

上野恩賜公園正面入口、石段を上った先にある「西郷隆盛像」。明治31年(1898年)に高村光雲(皇居前広場の楠木正成像なども手がける)によって制作されたものです。2018年の大河ドラマ「西郷どん!(せごどん!)」でも第1話のオープニングは銅像の除幕式から始まりました。


上野から東京を見守っている姿は、今では東京のシンボルのひとつ。関東大震災の時などは、尋ね人の貼り紙を貼る掲示板として活躍したという話もあります。

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西郷隆盛は西南戦争を起こしたことで「逆徒」という扱いを受けましたが、明治天皇から明治22年(1889年)「正三位(しょうさんみ)」の位を追贈(明治2年に一度「正三位」に叙せられているがこれを辞退している)され名誉回復がなされました。その後、薩摩藩士が中心となり、西郷隆盛像は立てられます。上野に設置されたのは、旧幕府軍の一部で構成された彰義隊が上野の山に立てこもった際、西郷隆盛ら官軍が攻め立てた場所であることが理由とされているようです。

いかがでしたか?

今回は西郷隆盛の東京ゆかりの地をまとめてみました。「西郷隆盛 東京」と言うと上野公園の銅像がとても有名ですが、こうしてみると、まだまだ他にも沢山あることがわかりますね。どれも観賞に時間がかかるものではないため、ちかくに立ち寄った際に、ちょっとよりみちしては如何ですか?